長目村のこと


 
井奥一郎氏のかたりべ

長目村は弥生時代より始まり、鎌倉・室町にかけて播磨国田原莊となる。九條家古文書・神崎郡誌を参考に昔よりの伝承をまとめた。
弥生時代に人間が住居していた下野畑遺跡は福崎町田原村大字南田原字下野畑501番地より580番地までの中位段丘より出土の弥生式土器・石鏃・石剣等は、姫路市に保管されています。

現在は雑草の森で、昭和中期までは大豆いもを収穫していた。冬季より春期にかけ学生が表土に出た土器を拾っているのをよく見かけた。昭和63年4月1日より5日間教育委員会の方々と奉仕団10人が松本先生、藤原先生の指揮のもとに、土地所有者の承諾の上発掘にかかる。5ヶ所発掘する中の1ヶ所鎮守の森境内より1m下から土器が百個余り出土した。先生方もほっとした様子で一安心、さっそく大先生の増田先生に電話する。奉仕団の方々も5日間のこと故、くたびれた様子も見受けられた。それらの出土物は教育委員会の方に保管してある。8月の夏休みに中学生が畑で土器片十センチから十五センチ程のものを多く拾ってきた。

弥生時代より以後の百姓は、農作に便利な中位段丘より高い場所を選び住居し、農作に従事していたと考えられる。それが一つの集落の初めである。幸いにして市川があり、長い年月に一つ一つ水利の便を計り今日の水田ができたのである。

長目村は中世鎌倉時代から室町時代にかけ、播磨国神東郡田原莊生目と呼ぶ。近世長目村は江戸期より明治九年までの村名。
もと豊臣氏蔵入地で慶長5年(1600年)に姫路藩領となる。村の石高は神崎郡誌正保郷帳に361石余、内田297石余、畑64石余、寛延年間(1748年~50)448石とある。

九條家古文書、神崎郡誌に田原莊は東蓮華池・南船津・西市川・北保喜山の範囲を田原莊という。とある田原莊惣田数は弐百五町、陸反参拾弐代正応4年(1291年)。

長目村は江戸期より現代にかけての村名で以前は生目と呼んでいる。小村でありながら娯楽集中の所で各先生の石碑が坂の横に北より天真流家元、佛花、謡、将棋、浄瑠璃、三味線、角力各先生の碑がある。

村には屋号が多く、南より紙屋・坂・鍛冶屋・梅ノ木・さえの木・梅の木・前店・北店・角屋・酒屋・堀端・木屋・西かいち等数多く江戸期には長目組と呼んだ。村の中でも、東組・西組と什器一式まで分れていた。故に墓地も東墓地・西墓地とある。昭和になり旧什器は焼却し長目村として婦人会が主体となり新調して何不足なく使用している。


勅使寺のこと


勅使寺は元村西裏字柳田261番地より268番地まで7反の小作あり、一反に約1石5斗の年貢を納めそれで勅使寺の年間経費としていた。戦後農地解放により耕作者に渡った。施主姫路城主本多中務大輔。本尊は一面観世音菩薩・不動明王・阿弥陀如来、内陣建立者は松岡興左衛門で元禄六年建立。現在公民館内で祭っている。

勅使寺の主な行事   2月11日  涅槃祭
               5月18日  花祭
               8月 9日  四万六千観音様
               8月17日  観音様命日祭
村民として鼻高く誇りを持って毎日毎日順番の佛祭りをしている。



鎮守藤田神社のこと


鎮守藤田神社は長目・八反田両村の氏神様で以前は八反田村神東の木村の西の端市川近くに鎮座していたが延宝四年(1670)大洪水で流出。
現境内の北側崖下に流れ着いたと言う。
藤田神社の境内地は下野畑575の1・・・・・・・・1,034平方メートル
               山林574の1・・・・・・・・3,047平方メートル
               山林575の1・・・・・・・・  899平方メートル
の両村の所有地で管理している。

大正初期、大工三浦新太郎氏建築。狛犬は正木新次・難波桃太郎より。鳥居は今上天皇ご大典記念に正木執機・井奥賢次氏より昭和3年完成。
藤田神社は百姓先祖大歳大明神を祭る。八月湯立と秋祭りには両村の屋台を練りだし、老若男女問わずお参りし共に見物する。


薬師寺のこと


江戸時代の寛永(1624~43)、元禄(1688~1703)、享保(1716~35)、八代将軍吉宗までに大きな出来事が多くあります。
曹洞宗霊松山薬師院は寛永9年移転で、古くは集落の東字古屋敷、、南田原北中才225番地に薬師堂(提堂)があり、行基上人が5ヶ年間滞在した伝説をつたえている。寛永年間に現在地南田原下野畑578番地に移転し、現在本堂の南の端より東向きにお堂(提堂)が建ててあったと伝えられている。本堂は阿弥陀如来・薬師如来を祭る。奈良薬師寺の末寺として創立され、両如来は秘仏として、平素扉を閉じられ60年に一度開帳する。昭和59年4月7・8・9日は一生に一度も会い難いご開帳日でした。
現本堂は日露戦争前後の建築で大工三浦新太郎大正5年上棟す。明治7年の墓籍調査書を見ますと、境内地の西1畝29歩の墓地あり、明治7年以前の墓を見ると、郡内でも数少ない五佛像が並んでいる。その五佛は次のとおりである。
  五佛(南より)
     1.阿閦如来(あしゅく)
   2.阿弥陀如来(あみだ)
   3.大日如来(だいにち)
   4.宝生如来(ほうしょう)
   5.不空成就如来(ふくうじょうじゅ)


教願寺のこと


教願寺は浄土真宗本願寺派、浅瀬山教願寺である。宗全は赤松氏一族で享禄元年(1528)室町末期に佐用郡より移住し、天文22年(1553)出家し同寺を創建したと伝える。その後元亀元年(1570)には石山合戦に参加し軍功により開基佛本尊を受けたという。現本堂は文久3年(1826)大工三浦新太郎建築となっている。広大な庫裏は昭和十年、門鐘楼は昭和五年より七年に完成している。